(東・西) 超 勝 寺 案 内 | |
超勝寺は藤島城主、斯波豊郷(しば とよさと)の勧進により、本願寺五世綽如(しゃくにょ)上人の次男、頓円鸞芸(とんえん らんげい)法印を寺主にむかえて開創されたお寺です ときあたかも、藤島城では白藤の花が咲き乱れていたので、白藤山超勝寺と称するようになりました。 蓮如上人は吉崎で布教に邁進するいっぽう、しばしば当寺を訪ねて逗留、信心の道理などについて四通のお文を書き残しています。 やがて、蓮如は一向一揆にまきこまれる危険を避け、北陸の地を去ることになりますが、そのとき手ずからうえたという椿が「蓮如椿」と呼ばれ、いまも超勝寺の境内に残っています。 古老の言によれば、この椿の葉には六字の名号がくっきりと浮かび出ていたそうです。 江戸時代に本願寺が分裂すると、当寺も東と西に分裂することになり、兄、頓恵は東超勝寺を、弟、准照は西超勝寺を創建しました。 写真上:西超勝寺 写真下:東超勝寺 |
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左の写真は「鹿子(かのこ)の御影」です。応永二十七年(1420)蓮如の父存如が正妻を迎えることとなり、生母は大谷本願寺を去らなければなりませんでした。しかし、たった六歳の我が子と別れなければならない悲しみは言葉につくせるものではありません。生母は蓮如に鹿子の着物を着せ、絵師にその姿を描かせ、忘れ形見としたのだといいます。 「鹿の子の御影」は全国に八点あるそうです。もちろん、西超勝寺にも伝わっています。 |